構成作家を目指します

将来自虐ネタにできるようなブログ

もう記事をアップしてしまったので前後するが所信表明である。このブログは、

 

ラジオ(あるいはそれに準ずるもの)の「構成作家を目指す」男性の証(シグナル)である。

 

いつかこの言葉を自分のネタにできるようにあえてイタく。

 

残したいラジオ、残したくないラジオ

 まあどこにでもいるちょっと勘違いしちゃった人の恍惚の表情でなされる悲劇的な身の上話も需要ないでしょうし自分的にも身にならないだろうから自分の考えのキーワードをさらっと整理しておくと

  • ラジオの雑多な感じ

 ぼくがラジオに関して魅力を感じている、そして残していきたいと思う点のいちばん大きなものは、なんとなく耳を澄ましていたら聞こえてくる情報(コンテンツ/イベント/商品など)が気がついたら点と点が繋がるように時代ごとの人の考え方、意識を感じ取ることができる立体的な知識になっていくという点。であってDJ個人の求心力で排他的で強いコミュニティを作り上げることではない。

 ラジオ、またはラジオ的なもの(例えばニコ生やYouTubeの生放送など)の生存戦略は後者に傾いていっているように感じる。これは現時点でラジオメディアコモディティ化する中で無くしたものが「公共の電波」であるという、メディアとしての体質による限界もあるのだが、新しいテクノロジーの登場を待つばかり、ではだめだろう。

 

  • エンタメは相対的でバトルロワイヤル状態であるということ

 これは言うまでもない。ほとんどインターネットが世界をつなげてくれたおかげと言えるでしょう。それでもなんであえてラジオなのかと言ったら本当にただ青春時代を(お女性と過ごしていてもいいような時間帯を)ラジオとともに過ごしてきたからだと。あのとき女性と過ごしていた友人が結婚して子供を産むように、僕はラジオと結婚してラジオの子供を産む。

 

  • ともすれば冷めることができるということ

 これをいちばん忘れてはいけないと考えている。ざっくりと、僕たちの世界は右肩下がりの残念なかんじ、と言えると思う。だから何かに没頭しているように思っていても、なんとなく冷めた視線で客観的に自分を振り返ることができてしまう。なぜならそんな残念な世界で起こることが残念でないわけがないから。だからどんなにおもしろい芸人さんのネタを見ても、幸せなエンディングの映画を見ても、かわいらしいアイドルを応援していても一歩引くことができてしまって、そしてそれが大きく感情を動かせば動かすほど何か大きなものの手のひらの上で踊っているような大きな寂寥感を強いコントラストで感じてしまう。ラジオにはそこをさらにメタになって笑いやコンテンツに変換できる可能性を感じている。

 

これがらがぼくの大きなテーマですね…

将来振り返って恥ずかしくなるといいなあ。