マキタスポーツさんの1億総ツッコミ時代という本をよみました!

いまさらですが、マキタスポーツさんの「一億総ツッコミ時代」という本をよみました!

とてもたのしくて一晩で読んでしまったのですが、読みながら、なかなかこころがチクチクするお話でした。

 

「今の日本の世の中、ボケかツッコミで言ったらツッコミ側に回る人間が多すぎる。メタではなくてベタに生きよう。」という内容です・・・

 

すごく考えさせられました。

というのも、この本を読んでいて共感する部分も多いし、なんとなく「メタからベタに」というのを心がけてみよう!とも思ったけれど、読み進めるうちにその「共感すること」自体も実はメタになってしまうよな、というもやもやに襲われてしまいました…

考えてみるとマキタさん自身、この本を書いて、この流れに対して違うんじゃないか、と言うこと自体もどちらかと言うとメタですよね。そしてそれを見て、こんなふうに感想をブログなんかでどうこうと言ってしまうこともツッコミ側なんですよね。でもそうなるとそれについて考える事自体がやっちゃいけないことになってしまう。

 

どうしよう!

 

その無限ループの中で、逆に、たぶん今の世の中には努力して辞めない限りメタ=ツッコミをやめられない空気、ファッション(?)、いずれにせよ構造的な圧力があるんでは!?と思ったんです。

 

ここできっと苦手な政治とか経済の話につながっていくんでしょうが、以前「若者の気分」というシリーズ書籍の土井隆義さんの「少年犯罪減少のパラドクス」という本で読んだのですが、世代間のいろいろを含めての「意識の差」ってどんどん小さくなってきているんだそうです。ジュネレーションギャップというやつですね。いろいろなことをおなじ感覚で共有できる人間が増えていっているんだそうです。

つまり社会的に安定した期間が長くつづいて、「社会の経験値」の蓄積がある。

 

だからこれをお笑い的に切り取るって考えてみると、

なにもかもがみんながある程度は共有できる「あるあるネタ」=「ツッコミ可能なもの」になり得る

ということですよね!疲

いずれ、その「ツッコミ」さえもツッコミ可能なものに。。。

 

他人とは違う自分を求めるのが現代人でしょうから、そうなると何をするにも「あるある」=「ベタ」に回収されないように言い訳がいっぱい必要になってくる。いわゆる予防線を張るって作業が必要になってくるんですね。それも何重にもやらないといけない。のちに予防線をはること自体がベタになってくる。

 

現代のコミュニケーションはほんとうに疲れますね!

たぶんこの状況って個人がどうこうすることで解消されるような問題でもないんだろうな。でもちょっと疲れるけど、死ぬほどの問題でもないんですよね。

きっと戦争とかで社会が大きく動いて一気に人間が作り替えられるまでは続くんでしょう。。。

できることは、実は今っていうのが、その「社会が大きく動いたとき」に、「あのころはメタとかベタとかでちまちまやって、何してたんだろ!」と思えるような微笑ましい状況であることを信じるのみです!

 

おすすめの一冊になりました!

 

一億総ツッコミ時代 (星海社新書 24)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書 24)

 

 

 

ワールドワイド☆でんぱツアー2014 〜全国ZEPP行脚〜

1月5日のワールドワイド☆でんぱツアー2014 〜全国ZEPP行脚〜Zepp ダイバーシティ東京公演2日目に参加してきました。一言での感想は、こんなに楽しめるとは思っていなかった、です。

 

ぼくはライブを楽しめない人間です。音に合わせてジャンプしたりからだを揺らしたりすることが一番苦手です。音楽にノッていることが恥ずかしいことだと思っていたし、それを誰かに見られていたらと思うとライブ中には後ろのほうで棒立ちで見ているしかありませんでした。

ライブ自体には全く行かないというわけではなく年に2,3回はいくのですが正直どこか楽しみきれていない、自分のライブの楽しみ方に納得できていない自分が常にどこかにいました。

今回のライブでも序盤は本当に棒立ち状態でぼうっと見ていました。でも全力で踊るピンキーの笑顔を見ていたら、「応援しなくちゃ、名前を呼ばなくちゃ」という使命感が湧いてきました。気がついた頃には全力で名前を呼んでサイリウムを振って、声を枯らして、腕の筋力も使いきっていました。

そこにはかつてのようになりふりを気にしてライブを楽しみきれない自分はいませんでした。

そこには全力でパフォーマンスするピンキー始めでんぱ組.incとそれを全力で応援したい気持ち、それ以外は関係ないんだ、と。

 

今までいくつか参加したライブでは、自分がそのライブに行く行為自体に変に意味合いを求めてフィルターを何重にもかけてしまっていたんだ、と感じました。

今回のライブでは何かの力が働いてそのフィルターを取っ払っわれて、全力でパフォーマンスするピンキー始めでんぱ組.incを全力で応援する、という至ってシンプルにライブを楽しむことができました。

もしかしたらこれはでんぱ組.incに限らない他のアイドルライブでもすり替えられるかもしれない。というかきっとそうなんでしょう。でもいろいろなたまたまが重なって今でんぱ組.incを推せていることに無理やりにでも意味を感じたい。

 

FM-FUJIでんぱ組.incのラジオに感想メールを送りました。全く期待していなかったのですがそれが番組冒頭で読まれました。内容はもう些細な感想メールです。以上に書いたことの要約のようなものです。変に意味を見いだされるのも押し付けがましいと思いますが、ただ単にこの自分の中で大きい意味を持つと思った出来事と感想がメンバーに文章として届いていることが本当にうれしいと思いました。

 

そんな自分史に残る出来事でした。

2014年以降でんぱ組.incについていくためにはもっと勉強しなくちゃいけないことがたくさんあるみたいです。

それこそでんぱ組が地下活動していた頃からのファンのかた

からしてみれば、うっとおしいんだろうなとか考えてしまいますが、がんばります。 

ゆるキャラグランプリの「スベってる感?」について、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの

スベってる感?

 盛り上がっているところに水をサスつもりはないですが、「ゆるキャラGP」ってなんかスベってませんか?

 

 ぼくは住んでいる場所に強い思い入れを持つタイプの人間ではないです。今では特に珍しくもないでしょう。どこに住んでもだいたい同水準の生活が送れるように設備が整ってますし、ほしいものはアマゾンでだいたい手に入れられますし、友達はだいたいウェブに移行出来てますし(というかもともとそんなにいない)。でも最低限どこかには住まないといけない以上、選んだ自治体がまちを「良く」しようという試み自体に文句はありません。

 しかしクリエイティブ、つまり「クオリティ」を扱うジャンルとしてこの一連のゆるキャラブームの数々を見た時にはやはりモヤモヤする部分があるなと思ってしまいます。もちろん数あるプロジェクトの中ですから成功しているものもあるんでしょうが、僕だけではなく見守っているある程度多くの人が応援する気持ちと同時に冷ややかな目線も持っているように感じてしまうんですよね。

 今回はその冷ややかな目線を向けてしまうつまり「スベってる感」の原因を、ミクロ(=プレーヤーである周縁)の問題、とマクロ(=構造・ルールである中央)の問題の両面から、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなものをまとめてみたいと思います。

 

 

ゆるキャラにまつわる話(ミクロの問題)

 まず身の上話ですが、この辺りが僕のこの問題意識の原点なので話させてください。

 ぼくは今年の夏に友人の伝で、いま住んでいる地域の祭りの出し物の一貫として開催されたお化け屋敷の脚本を書かせてもらいました。内容はなんてことのないストーリーだったんですがその際めんどうな注文が入りました。

「ゆるキャラ」です。

 「ストーリーの中にその地域のゆるキャラを取り入れてほしい」との依頼が入ったんです。ストーリー自体ははじめからあまりかっちりと固めずにどうにでも転がせる状態だったため、脚本の変更自体はそれほど大変なものではなかったのですが、厄介だったのはこのゆるキャラが完全に「機能不全」だったんです。

 

 どういう状態かというと、そのゆるキャラにまつわる情報として渡されたのが「〇〇が好き」「〇〇を応援している」程度の性質・趣味・嗜好の覚書にも満たないようなもので、重要なのはそれが空間的(三次元的というか、、、)な情報にとどまっているんですよね。

 

 余談ですが、今流行るエンタメが、昔のそれとは違う部分って「時間」の関わり方だと思うんですよ。たとえばももクロとかいまは迷走気味ですが、「脚本家」が影にいて、(というとなにか陰謀的に感じてしまいますが、)大筋としての目標=紅白を目指して、というストーリー(=時間)的な高揚感を共同体験する。それを大前提にメンバーの魅力、スタッフの魅力、その他諸々が重なりあってあの一大コンテンツが出来上がっているんですよね。他にも脱出ゲームなんてまさにですよね。何もない場所にただストーリーを持ち込むっていう。例えがベタで申し訳ないですが、それを言い換えて「物語性」とか「ストーリー」といって、それが仕組みの根幹にあることがエンタメコンテンツの大前提になってますね。

(余談ついでですが僕が推したいのは「物語性」、「ストーリー」が「時間」の下位概念であって「時間」カテゴリはもう少し取り入れ白の発掘し白があるんじゃないかという部分です)

 

 長々脱線して申し訳ないですが、何がともあれ、ぼくが関わっていたその「ゆるキャラ」は、予定も場当たり的で、立ち位置的にも(市のメインキャラなのか委託された法人のキャラなのか)曖昧でとにかくゆるキャラにまつわる環境がしっかり整ってないんです。

 

 それで、後々になってからなんですが、「規模の問題」、とか「予算の問題」とかとは別にある疑問が浮かんできました。それは「この人達ってほんとうにゆるキャラが作りたかったのかな?」というものです。

 もちろん「やる気あんの?」という精神論のようなものではありません。少し考えてみたのですが、たとえば全国的に「ゆるキャラ」が町おこし、つまり、「まちを良くする活動」の象徴として大流行している中、隣のまちもその隣の町も「ゆるキャラ」をつくる。そんな中でゆるキャラを"まだ"作っていない市町村があったとしたら、

「ゆるキャラを作っていないこと」が「町おこしに積極的でないこと」

に繋がるのはそんなに想像を絶することではないのではないでしょうか。

 もしもそういった意識が本当に存在するのであれば(むしろそういった願望が生まれないほうが不自然だとすら思うが)規模が小さく、予算も相対的に少ない周縁にいけばいくほどクリエイティビティが必要になり、"藁にもすがる思い"でしょう。

 

 

構造の話(マクロの話)

ゆるキャラ®で町おこしをお考えのみなさまへ

我が国に限った事ではありませんが、いわゆるヒト・モノ・カネが都市部へ集中する地域格差による歪みは、
想像以上に大きく、私たちの生活に暗い陰を落としています。

しかしながら、近年、地域の特性を十分に生かしたPRや、
地方ゆえの素朴さをアピールしたプロモーションなど地方活性のアイディアは機知に富み、多岐にわたっております。
中でも「ご当地のゆるいマスコットキャラクター」通称ゆるキャラは地域活性の救世主として活躍しております。

ゆるキャラグランプリ実行委員会は当グランプリを通して、
ゆるキャラグランプリはプレゼンテーションである」というコンセプトを掲げております。

実際、多くのみなさまに、「ゆるキャラグランプリ」にエントリーする事による効果を実感していただいております。

1.デザイン決定までのプロセス
2.平面のデザインから立体のデザインへ
3.着ぐるみ製作の注意点とポージングのノウハウ
4.着ぐるみ運用のガイドライン
5.ライセンス契約のアドバイス
6.PR活動

上記1~6についてお考えの方は以下よりお問い合わせください。

(※筆者注 この後に連絡先リンクがありましたが、省略しました)

 

 引用したのはゆるキャラグランプリのオフィシャルウェブサイトに掲載されている「ゆるキャラで町おこしをお考えのみなさまへ」(http://www2.yurugp.jp/partnership/)と題されたのページの一部分です。

 ここからはマクロ(=構造・ルールである中央の問題)の話に入っていきます。ここであえて、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの(もうやめます)に触れてしまおうと思います。

 ぼくたちが「ゆるキャラ」に対して、やや冷ややかな目線を向けてしまうのは、このゆるキャラという一連のブームを産出している、構造・ルールそのものに「古さ」を感じてしまっているからである。あくまでも"結論"ですので断定口調で書いてみました。「古さ」とは「既視感」です。

 そして僕が表現したい古さと言うのは「古い」=「ださい」という感情的なものではありません。それは

 

「マニュアル通りにやれば"必ず"とは言はないまでも、かなりの高確率で成功する。なぜならそのマニュアルは成功から作られたマニュアルだからである。」

 

とも取れるシステムの「古さ」です。どこかで聞いたことのある論理ですね…

 

 つまり、ゆるキャラを見て微笑ましいと思いつつも心のどこかで「スベってるな」と思ってしまう、それはこのゆるキャラブームの端々(たとえば先程の引用からもわかる通り、構造・ルールが「公開可能」の情報として存在していることなど)から、そのような「古いやりかた」に既視感を覚えてしまい、なおかつ重要なのは、

 

構造・ルール(あるいはシステム)が「公開可能」の情報として存在していることに対して無意識であること

 

であると言えるでしょう。なぜならプレーヤーである地方自治体が"藁にもすがる思い"だからです。

 

 実際に先程の引用に見られる、マニュアルは規模的にも人員的にも経済的にも相対的に乏しい周縁のプレーヤーからして見れば"ありがたいもの"になるのでしょう。しかし「高度なエンタメ体験を重ねている現代のぼくたち」とあえて意地の悪い視点からみてみると、藁にもすがって手に入れたその要素が相対的に他のエンタメよりも「劣って」つまり「スベって」見える原因となる要素になっているのだと思います。

 

 

まとめ

 最後にかんたんにむりやり"一文で"まとめに入りますが、「ゆるキャラ現象」になんとなく「スベってる感」を感じてしまうのは、ゆるキャラが新しい現象として取り上げられつつあるが、大本は「マニュアル通りにやれば成功する」という「古いやりかた」に運営されており、なおかつそれが公開可能である状態に運営側が無抵抗、無意識であって、一連のプロジェクトの端々からその意識を感じ取れてしまうからである。

 しかし(ああ二文目…)その背景にはブームに煽られた結果、十分な環境が整わない中で必ずしも積極的ではないかたちで参入させられている"周縁"の存在の可能性が多分にある。()そしてそういった人たちにとっては、一つのエンタメとしてはつまらなくなるこの要素がやっとのことですがりつく藁にさえなりうる、という悪循環が働いている、のではないでしょうかということです。

 

 

 この他にも、町おこしの地域性・地元性や、エンタメの大きな流れなど、この話に関してはまだまだ考えるべきことが多いと思いますがきょうはこのくらいでとりあえず手が痛いです…。それにしても20年後に役所の倉庫の片隅に追いやられた物悲しそうなキグルミたちの姿が思いやられてしかたがないのですが…。

 

 

 

マイナーがポップ化する危険性と大メディアの暴力性についての走り書き

ぼくの一つの問題設定として執筆しています。

気になったCMがあります。それもよくない方向で。以下のCMの取り上げているネタは本来は"マイナーなあるあるネタ"であるべき。そしてそれが"マイナーなあるあるネタ"として成り立っているからこそ切実に救われている人が少なからずいると思うんですよね。近いうちに時間をかけて考えてみたいと思います。

 

リクナビ『「それドコ情報?」&「っちょ、カンベン」編』 

http://www.youtube.com/watch?v=JJFyuTdbBNk

 

カップヌードル『日清 「SURVIVE! リア獣との闘い 篇」』

http://www.youtube.com/watch?v=X1rmJc6WaZI

構成作家を目指します

将来自虐ネタにできるようなブログ

もう記事をアップしてしまったので前後するが所信表明である。このブログは、

 

ラジオ(あるいはそれに準ずるもの)の「構成作家を目指す」男性の証(シグナル)である。

 

いつかこの言葉を自分のネタにできるようにあえてイタく。

 

残したいラジオ、残したくないラジオ

 まあどこにでもいるちょっと勘違いしちゃった人の恍惚の表情でなされる悲劇的な身の上話も需要ないでしょうし自分的にも身にならないだろうから自分の考えのキーワードをさらっと整理しておくと

  • ラジオの雑多な感じ

 ぼくがラジオに関して魅力を感じている、そして残していきたいと思う点のいちばん大きなものは、なんとなく耳を澄ましていたら聞こえてくる情報(コンテンツ/イベント/商品など)が気がついたら点と点が繋がるように時代ごとの人の考え方、意識を感じ取ることができる立体的な知識になっていくという点。であってDJ個人の求心力で排他的で強いコミュニティを作り上げることではない。

 ラジオ、またはラジオ的なもの(例えばニコ生やYouTubeの生放送など)の生存戦略は後者に傾いていっているように感じる。これは現時点でラジオメディアコモディティ化する中で無くしたものが「公共の電波」であるという、メディアとしての体質による限界もあるのだが、新しいテクノロジーの登場を待つばかり、ではだめだろう。

 

  • エンタメは相対的でバトルロワイヤル状態であるということ

 これは言うまでもない。ほとんどインターネットが世界をつなげてくれたおかげと言えるでしょう。それでもなんであえてラジオなのかと言ったら本当にただ青春時代を(お女性と過ごしていてもいいような時間帯を)ラジオとともに過ごしてきたからだと。あのとき女性と過ごしていた友人が結婚して子供を産むように、僕はラジオと結婚してラジオの子供を産む。

 

  • ともすれば冷めることができるということ

 これをいちばん忘れてはいけないと考えている。ざっくりと、僕たちの世界は右肩下がりの残念なかんじ、と言えると思う。だから何かに没頭しているように思っていても、なんとなく冷めた視線で客観的に自分を振り返ることができてしまう。なぜならそんな残念な世界で起こることが残念でないわけがないから。だからどんなにおもしろい芸人さんのネタを見ても、幸せなエンディングの映画を見ても、かわいらしいアイドルを応援していても一歩引くことができてしまって、そしてそれが大きく感情を動かせば動かすほど何か大きなものの手のひらの上で踊っているような大きな寂寥感を強いコントラストで感じてしまう。ラジオにはそこをさらにメタになって笑いやコンテンツに変換できる可能性を感じている。

 

これがらがぼくの大きなテーマですね…

将来振り返って恥ずかしくなるといいなあ。

 

 

 

【11月22日放送】アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロ─感想戦

有楽町ボブスレーチームをつくろう

 今回のメールテーマは、マンガ、「黒鉄ボブスレー」の連載開始、そしてソチオリンピックの開催を見越して「ソチオリンピックを目指して有楽町ボブスレーチームをつくる」とのこと。前半はリスナーからボブスレーチームに関する助言や参加表明、後半はソリを早くするための工夫を募集するという内容。

 ボブスレーチームをつくるという流れ自体にはあんまりおもしろさはないから、「ボブスレー」の音韻的な面白さを活かしたネタで流れをつくるという感じでしょう。いかんせんセンスワードなので、流れを作って盛り上げて落として、という手法が機能しづらいテーマで「ボブスレー」という言葉の音韻的な面白さがいまいち生かせていない印象を感じた。ボジョレー・ヌーヴォー解禁や、流行語大賞には序盤に触れただけにもうちょっとそれも絡めて寄せていけばよかったのかもしれません。

 リスナーから寄せられた「滑ってる」という指摘のメールが唯一の軸になっていたかと思うが、それも完全に自虐に走るでもなく単発のリスナーいじりの枠を出ない感じでしたね。

ラジオのボブスレー」ってなんだよ、という流れが唯一よかったかなー。

 

 

今回送ったメール(RN スピードスター☆はやかわ 名義)

 ─メールテーマ「ボブスレーチームをつくろう」

  • 彼女と二人でボブスレーに乗りたいのですが、席はまだ空いていますか?─不採用

     

  • 週末に家族でボブスレーに参加しようと思っています。父、母、私の三人で予約をお願い致します。もう一人の方は相席でも構いません。よろしくお願い致します。─不採用

     

  • ボブスレーチームを結成するということを小耳にはさみましたのでメールさせていただきました。ニンテンドー64マリオパーティボブスレーなら自身があります。相手のボブスレーを壁に押し付けながら減速させ、壁のなくなる部分で相手のボブスレーを落下させるテクニックには自身があります。お力になれるでしょうか?─不採用

     

  • 僕はインターネットが上手です。情報戦なら任せて下さい!─不採用

 

  • とりあえず滑走路を照らすネオンは付けたいですね。あとやっぱり車高はギリギリまで下げるでしょう!─不採用

 

  • なんか早くなるかと思ってボディに浜崎あゆみのステッカーを貼っておきました。─不採用

 

  • スピードでは勝てないと思うのでとりあえずおっきなソリを つくりましょう!─不採用

 

─相棒アンドロイド、ごちそうさん!のコーナー

  • おじいさんアンドロイド
    小高い丘の上のセレモニーホール。
    夕日に染まる秋空に、煙突からぽうっと上がる一筋の煙を見ながら
    「今までどうもごちそうさん─不採用

 

うーん芳しくない結果に終わりました…

ボブスレーをDQN仕様にするというネタの流れは他のリスナーとかぶってしまった…

残念、また来週。